2007年6月24日 (日)

飯野知彦(デュークエイセス)、松井天斗、柳田衣里佳の共通項は?

日本の男性コーラスグループを代表するデュークエイセスですが、途中からそのメンバー(といっても、すでに17年くらい経過していますが)に参加し、トップ・テナーを担当する飯野知彦さん。

※飯野知彦さんに関しては下記参照
http://www.din.or.jp/~dukeaces/index2.html

Img_7868 昨年10月からTBSの人気番組『水戸黄門』に「おけらの新助」役で出演している松井天斗さん(左は松井天斗さんの実家「松井テント」。ポスターの由美かおるさんの右隣が天斗さん)。

※松井天斗さんに関しては下記参照
http://www.hagimoto-kikaku.co.jp/kingeki/profile/part/matsui/index.html

そして天海祐希さんが主演した『女王の教室』の6年3組の児童、島田マリ役で芸能界デビューした柳田衣里佳さんの共通項は何だか分かりますか?

※柳田衣里佳さんに関しては下記参照
http://www.queens-ave.com/yanagita01.html

3人それぞれ年も大分違いますし、性別も同じではありません。まったく共通項がなさそうな3人ですが、意外にも3人に共通することがあります。

Img_7869 それはいったいなにかと言いますと、あなただけにお教えしますが、実は全員前橋市出身なんです。

さらに言えば、お三方とも、ワタクシも卒業した前橋市立東(あずま)中学校学区域の出身ですね(柳田衣里佳ちゃんは、東中学校ではありませんが)。←これが言いたかったため、この記事書いているようなものなんですが・・・(~_~;)。

(前橋市立東中学校の大先輩には、「黒い雨」などで知られる作家井伏鱒二の釣りのお師匠さんとして知られる随筆家で『月刊 つり人』の版元である「つり人社」の創業者、佐藤垢石もいます。

Img_7871 また天台宗の荒行「千日回峰行」を満行された北嶺 大行満大阿闍梨である上原行照さんも前橋市立東中学校の卒業生ですね。こんなこと書くと畏れ多いですが、ワタクシが東中学校のバレーボール部の3年生のとき師は1年生。ご関心の向きは、06年6月26日エントリーの「前橋出身の千日回峰行者」をご参照下さい)

飯野知彦さんはこの3人の中では比較的年が近く、氏と同学年に親戚のはとこがいたり、親レベルで知り合いだったりしていたので、ワタクシが中学生の頃から、村内では、東京藝術大学を目指している人、ということで有名でした。

前橋市立東中学校の学区域は、当時はまだ田んぼだらけの文化果てる草深い田舎でしたから、高校生の頃から東京の音楽の先生のところへレッスンに通っている飯野知彦さんは、隣近所では異色の高校生でしたね。

そのくらい目立った人ですから、芸大卒業後何年かしてデュークエイセスのメンバーになったのも、同時並行的に知っておりました。

(東中学校は前橋市の西にあるのに何故「東中学校」かと言うと、「昭和の合併」で前橋市になる前は群馬県群馬郡東村立東中学校だったからなんです)

柳田衣里佳ちゃんは、お兄ちゃんが少年野球をやっていて、その少年野球のチームにワタクシの子供も入っていたため、彼女の芸能活動は早くから耳にしておりました。

土曜・日曜・休日の少年野球の練習日に、お母さんに手を引かれ、お兄ちゃんの練習姿などを見にやってきた、まだちっちゃかった柳田衣里佳ちゃんを覚えております。

(仕事で東京出張した帰り、東京駅で、レッスンに通う衣里佳ちゃん親子をお見かけしたこともあります)

小学校低学年のうちにダンスの才能を認められ、島谷ひとみさんのバックダンサーをしたのがタレント活動の第一歩だったのではないでしょうか。

柳田衣里佳ちゃんのお父さんとは同じ年ですし、仕事の関係で会ったりするもんですから、その時は衣里佳ちゃんの消息を聞くことになります。

で、酒席などで前橋市立東中学校の話が出るような場合は、お国自慢よろしく、このお二方の話をしまくる、という行動をとって来たわけですが、恥かしながら、つい最近まで、松井天斗さんの存在は知りませんでした。                                       

(年齢の離れ方が、仕事の関係でも無い限り、丁度接点が一番少ない離れ方だからでしょうか・・・。)

つい最近、パンク修理に行った近所の自転車屋さんでの茶飲み話から転がり出た話で知ったのです。

(何故か知らないけどこの自転車屋さんの旦那、うどんを打ちます。修理に行ったとき、たまたまうどん打ちをしてて、両手は粉だらけでした)

『水戸黄門』、超の字がつく人気番組ですが、残念ながら個人的には今まで殆ど見たことがありませんでした。

松井天斗さんのご実家のテント屋さん「松井テント」の道を挟んだ反対側にある煙草屋には散歩がてら、よく「MILDSEVEN EXTRALIGHTS 3」を買いに行きますが、自転車屋さんでその話を聞くまで松井テントさんの店に「水戸黄門」のポスターが貼ってあることさえ気がつきませんでした。

(実家が「松井テント」だから芸名は「松井天斗」というベタな発想は、さすが松井天斗さんの親分で命名者の萩本欽一さんならではです)

国民番組の「水戸黄門」ですが、同じ中学校の卒業生としては、どうせなら、松井天斗さんに「おけらの新助」から、最後には「ご老公」役を目指して頑張って欲しいもんです。

【デュークエイセスの飯野知彦さん、「水戸黄門」おけらの新助役の松田天斗さん、「女王の教室」の柳田衣里佳ちゃんの故郷である前橋市立東中学校学区域が西部にある前橋市から軽井沢町までの直線距離≒27マイル≒43km】

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2006年6月24日 (土)

タミヤの模型と高荷義之

中学生の頃、ボーリングブーム(投げるほうで、温泉掘削ではありません)とともにモデルガンブームがありました。1970年前後ことです。ボーリングの方は、東京12チャンネル(だったかなあ?今のテレビ東京ですね)を中心に、プロの対決が頻繁にテレビ中継されていたので、全国的なブームだったと思いますが、モデルガンの方は、局地的な「マイブーム」だったのかもしれません。

刀剣の愛好家が日本刀の反りだの、刃の紋だのを楽しむのと同様、その重み、にぶく光る銃身などに強く魅せられました(その十数年後に南の方の島に行ったとき、本物の試射をしましたが、かえっておもちゃのような感じがしました)。

その前、つまり小学生の頃は、プラモデルです。それも特に戦車が好きで、年に何度か買ってもらうプラモデルは、全て戦車でした。しかし手先が不器用なので、車体はセメダインだらけになってしまい、箱に描いてある戦車のイラストからは程遠い出来上がりでした。

箱に描かれている戦車の重量感。そのイラストのリアルさは、エンジンのうなり、キャタピラーの音が聞こえてきそうでした(我が帝国陸軍の戦車はデザイン的にダサすぎて、誰も買うものはいなかったと思いますし、それ以前にプラモデルにもならなかったのかもしれもせん)。

高校・大学では戦争映画も少なからず見ていますから、兵器の機能的な美は、嫌いではないのです。

神奈川県の厚木市で2年間暮らしましたが、近くの厚木飛行場に飛来するジェット戦闘機の編隊飛行など、よくぶつからないものだと感心しながら空を見上げていました。ちょっと危ない性格かもしれません(お台場に行くとひっきりなしに離着陸する旅客機をいくら見ていても飽きません。東京湾の出入り口、観音崎沖を行き来する船舶の往来を一日見ていても退屈は感じません。実際は駐車場料金が気になるので1日いたことはありませんが。また、漁船はこの限りではありません)。

およそ100年前の日本海海戦の旗艦、戦艦三笠を横須賀へ見にも行きました(戦争で苦しんだ方や基地問題に悩んでいる方には申しわけありませんが、兵器の機能性には、どうしても美を感じてしまいます)。

この間、友人が経営する会社に遊びに行くと、懐かしきタミヤの模型でよく見た、戦車の大きなミリタリーイラストが壁にかかっています。彼にその絵の来歴を聞くと、知り合いのプロのモデラー(プラモデルを組み立てる人)経由で手に入れたとのことです。「サイン入りだぜ」と彼が自慢げに言うのに、私の反応が薄いものですから、彼は「高荷義之画伯のイラストだよ」と駄目を押します(彼の会社には艤装の違う2隻の戦艦三笠の大型プラモデルも展示されています)。

私はただただ、懐かしさと、そのリアルさに感心するばかりで、何と答えていいのか分からないままでした。実は、高荷義之という名前も初耳だったのです。

彼の説明では、高荷義之はミリタリーイラストの第一人者で、少年向けの漫画雑誌の表紙や口絵も多く手がけていたとのこと(少年漫画週刊誌はキング、サンデー、マガジンの3誌を一時期毎週貸し本屋で借りて読んでいましたから、兵器等に美を感じるのは、このときの「刷り込み」かもしれません)。

前橋市出身で、今80歳くらいだろうけど、お元気に前橋で暮らしていると、私が住んでいるところからすぐ近くの町名を言います。そしてオレ達の高校の先輩だよ、とも付け足します。

そんな人が居たんだ、というのが、私の率直な思いでした。友人の会社を辞してから、パソコンで「高荷義之」の名前を検索ボックスに入れて叩いてみると、ヤフーオークションでの売買を始め、沢山のデータが出てきます(皆さんもやってみて下さい)。すでにその作品は、その世界では「お宝」に分類されているようです。

少し群馬に詳しい群馬県人、を自認していたのですが、まだまだですね。

誰か高荷義之画伯の常設ギャラリーを作ってください(イラストの対象が対象なだけに、誤解される可能性が高いから、尻込みしてしまうだろうなあ)。

【高荷義之画伯の住む前橋から軽井沢までの直線距離≒26マイル≒41km】

Img_0185

私はやっぱり花が好き。だいぶカメラ目線に慣れました。

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2006年6月19日 (月)

鈴木貫太郎と桃井小学校

前回は土地でしたが、土地だけでなく、群馬縁故の人が取り上げられている本に出会うのも嬉しいものです。

遅ればせながら、半藤一利氏の話題作『昭和史』と『昭和史 戦後篇』を続けて読みました。戦前までの歴史を扱った『昭和史』には、頻繁に、終戦内閣総理大臣で海軍大将だった鈴木貫太郎(半藤一利氏に鈴木貫太郎氏を扱った本があります)のことが出てきます。鈴木貫太郎が群馬縁故の人物だったことは、大分知られるようになりましたが、名著述家に好意的に取り上げられるのは、何度でもうれしいものです。

(東京などで初対面の人に、群馬県出身ですと言うと、大抵の人が、群馬県は総理大臣を3人も出してすごいですね、とお愛想を言ってくれます。その場合、いえ4人です、と必ず鈴木貫太郎の話題を出します。)

鈴木貫太郎は、生まれは群馬県ではありませんが(大阪府と千葉県の二説あり)、小学校は現在の桃井小学校を卒業しています。父君は明治維新後、朝敵になった関宿藩(千葉県)の藩士でしたから、多分縁故を伝って群馬に流れ、群馬県庁に奉職したのだと思います(これは私の勝手な解釈。千葉関宿にある記念館にはもう少しこの間の事情を美しく飾ってあるようです)。

海軍兵学校に進むまで前橋にいました(弟さんは陸軍大将の鈴木孝雄。山下清の口癖風に、兵隊(兵ではなく将だけれど)の位で言うと、四国松山の秋山兄弟より鈴木兄弟が上になるということですね。軍艦で言えば戦艦大和と武蔵の関係かな?)。

過日、桃井小学校の関係者の方に話をお聞きましたが、同校の敷地内に小さな顕彰碑があるそうです。この方から「正直に、腹を立てずに、たゆまず励め」という、桃井小学校の児童たちに送った、鈴木貫太郎の言葉を教えていただきました。

誰か、前橋鈴木貫太郎顕彰会をつくりませんか?

【前橋桃井小学校から軽井沢までの直線距離=27マイル≒43km】

Img_0223

鈴木兄弟の父上が勤めていた群馬県庁。この建物の中で働いていた訳ではありませんが。この近くに桃井小学校があります。

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